翔ぶが如く
(2024.7.24開始-8.24読了)
創設:2024.8.25
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(二)
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春の霜
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(四)
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(六)
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(七)
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(八)
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(九)
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(十)
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紀尾井坂
書きおえて
司馬遼太郎全集
月報35-38
塩野七生
『翔ぶが如く』を読む
文藝春秋、2024.8
(以下の奥山議員の発言で、下線部は管理人が加えた)

https://ssp.kaigiroku.net/tenant/kagoshima/MinuteView.html?council_id=111&schedule_id=7&is_search=false&view_years=2011#

鹿児島市 平成23年(2011年)第4回定例会(11・12月)12月07日-06号
P.265 ◆質問 (奥山よしじろう議員)


次は、奥山よしじろう議員。
   [奥山よしじろう議員 登壇](拍手)
◆(奥山よしじろう議員) 平成二十三年第四回市議会定例会に当たり、自民党新政会の一員として個人質問を行います。
 まず初めに、昨年の秋に公開されました映画「半次郎」について伺います。
 この映画は、俳優の榎木孝明氏が企画を立ち上げ、明治維新に活躍した薩摩武士・桐野利秋の生涯を描いた作品であります。マスコミ報道によりますと、公開初日の舞台あいさつで榎木孝明氏が、最近の日本にはぼっけもん的な男性が減ってきている、だからこそ半次郎のような格好いい日本人を描きたかったと語っておられます。
 また、昨年一月のかごしま市民のひろばでは、森市長と榎木孝明氏が対談をしておられ、榎木氏が映画「半次郎」の成功で鹿児島に活気を呼び込みたいと言えば、森市長も、榎木さんに負けないくらいの情熱を持って未来に輝く「元気都市・かごしま」の実現に取り組みたいと答えておられます。
 森市長も映画を見られたことと存じますが、現代において桐野利秋といえば、もとの名を中村半次郎といい、人斬り半次郎という異名を持つ人物として一般的に知られています。しかしながら、この人斬りの異名は後世に書かれた小説の影響で桐野の印象を悪くし、ややもすれば無思慮な人物、荒々しい武者といったイメージを抱かせる原因の一つともなっていると思います。
 そこで伺います。
 第一点、森市長がこれまでに描いていた桐野利秋像と榎木孝明氏が演じた映画「半次郎」を見られて感じられた森市長の桐野利秋像をお聞かせください。
 第二点、森市長から見た榎木孝明さんの本市と桐野利秋に対する思いをどのように感じられたか。
 第三点、本市のフィルムコミッションとしての支援内容と地域活性化・文化振興・観光振興の上で本市にどのような効果があったと思われるか。
 以上、答弁願います。
   [市長 森 博幸君 登壇]
◎市長(森博幸君) 奥山よしじろう議員にお答えいたします。
 桐野利秋は吉野町実方に生まれ、明治維新の時期における各地の戦いに従軍し、明治四年には陸軍少将となるなど、近代日本の黎明期に活躍した人物の一人であると考えております。また、度胸のよさと剣の腕で有名で、西郷隆盛から重用されるとともに、おおらかな人柄は若者からも慕われた快男児であったようでございます。映画においても本県出身の榎木孝明さんによって、私心がなく義のために生きた人物として描かれていたと思っております。
 榎木孝明さんは、俳優として映画・テレビ・舞台で活躍をしておられるだけではなく、国内はもとより、アジアを中心に世界各地を旅し、水彩画を描き続ける画家としても知られております。また、ふるさとであります鹿児島を大切にし、あらゆる機会をとらえて鹿児島の魅力を発信していただいているところでございます。昨年一月の市民のひろばでの対談におきましても、映画「半次郎」やふるさと鹿児島について熱く語っていただき、その意欲的で精力的な生き方に触れ、大変心強く、またうれしく思ったところでございます。
◎経済局長(大山直幸君) 映画「半次郎」につきましては、撮影場所選定のための情報提供や現地への案内、撮影許可申請、エキストラの募集、撮影現場への同行等の支援を行うとともに、本市ホームページでの広報や、東京を初め県外の観光キャンペーンでのチラシ配布などのPRもあわせて行ったところでございます。
 本市への効果としましては、撮影スタッフの宿泊費や食事代、資機材や車両の借り上げ料など直接の経済効果はもとより、作品の公開により、明治維新における先人の活躍や撮影地となった本市の歴史・自然などが広く紹介されるなど、観光アピールの面でも大きな効果があったと考えております。
 以上でございます。
   [奥山よしじろう議員 登壇]
◆(奥山よしじろう議員) 答弁をいただきました。
 私も映画「半次郎」を一足先に試写会で拝見させていただき、見た者に元気を与えるすばらしい映画だと感じました。私の知人は何度も映画館に足を運び、見るごとに大きな感動に包まれ、胸が熱くなったと感想を述べております。今後とも本市に関連する映画撮影の際はフィルムコミッションとしての積極的な支援を要請いたしておきます。
 次に、桐野利秋誕生地の観光案内板について伺います。
 現在、南日本新聞に連載中の桐野作人氏の「さつま人国誌 幕末・明治編」の中で、「「人斬り」という言葉がいつごろから使われたのかはっきりしないが、少なくとも幕末期には「天誅」はあっても「人斬り」という言葉が使われていたとはとても思えない。つまり、明治以降の造語の可能性が高い。中村半次郎も「人斬り」と称されることがあるが、これは池波正太郎氏の小説の影響が大きく、当時そのように呼ばれていたとはとても思えない。幕末期に中村が人を斬ったことが明らかなのは史料上、わずか一例である」と述べておられます。しかし、吉野町実方の桐野利秋誕生地の観光案内板には、人斬り半次郎の名で恐れられましたと断定した説明文が記載されております。
 ちなみに、人斬りという言葉を辞典で引いてみますと、「人を斬ること、人を斬るのを好む人、罪人を斬ることを職業とする人、くびきり」と記載されております。
 そこで伺います。
 第一点、観光案内板に表記されている「人斬り」という文言に対する見解をお聞かせください。
 第二点、平成二十二年一月発行のかごしま市民のひろばの森市長と榎木孝明氏の対談の中で、全国的に余り知名度の高いとは言えない桐野利秋にスポットを当てたのはなぜですかという森市長の問いかけに対して、榎木孝明氏が、桐野利秋は人斬りのイメージが強く粗野な人物だと思われがちだが、この映画を通して、これまでのイメージを払拭したいと語っておられます。
 そこで、この際、観光案内板の「人斬り」の文言を、例えば「剣豪として恐れられた」、もしくは「示現流の達人として恐れられた」などに修正するお考えはないか、見解をお聞かせください。
 以上、答弁願います。
◎経済局長(大山直幸君) 桐野利秋誕生地にある観光案内板の説明文は、平成二年の案内板整備時に有識者の意見を聞いて作成したものでございます。なお、国学者や歴史学者により編さんされた国史大辞典などにおいても同様の内容が記載されているようでございます。
 この案内板の表記につきましては、改めて有識者から御意見を伺ってみたいと考えております。
 以上でございます。
   [奥山よしじろう議員 登壇]
◆(奥山よしじろう議員) 答弁をいただきました。
 専門家の意見の分かれる見解を断定して表記することは適切ではないと考えますので、早急に検証していただきますよう要請いたします。
 次に、桐野利秋開墾地跡について伺います。
 遣韓論に敗れた西郷隆盛に従って薩摩に帰った桐野利秋は、現在の本城町宇都谷の小屋に住み、開墾に励み、水田四反、畠五反を開墾し、西南の役勃発までの間過ごしたと言われております。そのときに住んだ小屋跡に明治二十七年に建立された碑が、現在、桐野利秋田盧跡と田盧碑として市指定の文化財となっております。その石碑には、当時、天下の武士たちが次々に桐野のもとを訪れたことや、佐賀の乱に敗れた男二人を桐野がかくまい、捕らえに来た役人を恫喝し追い返したという逸話等が刻まれております。
 また、平成二十一年九月、本市広報課発行の市政広報写真フラッシュによりますと、映画「半次郎」クランクインという見出しで、森市長がロケ地である本城町の桐野利秋開墾地跡を訪れ、主役の榎木孝明さんを激励したという記事が記載されております。
 そこで伺います。
 第一点、本城町の桐野利秋開墾地跡の文化財説明板に記載されている生年月日と没年齢が、吉野町実方の誕生地の観光案内板に記載されている内容と異なっております。誕生地の表記が正しいと思うが、見解をお聞かせください。
 第二点、市町村合併前からあると思われるこれらの説明板について、教育委員会と観光部局との双方の整合性を図る必要があると思料するが、見解をお聞かせください。
 以上、答弁願います。
◎教育長(石踊政昭君) お答えいたします。
 誕生地の観光案内板には、天保九年十二月二日生まれで三十八歳で亡くなったと記載されております。一方、開墾地跡の文化財説明板には、同年二月生まれで三十九歳で没した旨記載されており、調査しましたところ、開墾地跡の記載が誤っておりますので、速やかに修正いたします。
 また、史跡を見学する市民や観光客に誤解を与えることがないように、関連する観光案内板と文化財説明板の整合性を図るため十分な確認を行う必要があると考えているところでございます。
 以上でございます。
   [奥山よしじろう議員 登壇]
◆(奥山よしじろう議員) 次に、この質問の最後に、案内板の整備について伺います。
 開墾地跡の田盧碑は県道から約二百メートル入ったところにありますが、入り口のところにある案内板が朽ちた状態で放置してあり、このような状態であります。これは、入り口のところにある標柱です。標柱の木が腐った状態です。「桐野利秋田盧及び開墾地跡この奥」と下のほうに書いてあるんですが、下のほうが土に埋もれてしまいよく見えない状況です。ここから二百メートル奥に入ります。百メートル手前の分岐点にも案内板がありますが、このような状態です。これは田盧碑のそばにある案内板ですが、文字と矢印が消えており、左右どちらに行けばよいのかわかりません。
 このような説明板を目の当たりにいたしますと、郷土の偉人たちの影が薄れていくようで残念な思いがいたします。今後、市民と観光客を快適に案内できるようにするためにも整備すべきだと考えますが、見解をお聞かせください。
 以上、答弁願います。
◎教育長(石踊政昭君) 案内板の中には地域の方々が設置したものもあるようですが、来訪者がわかりやすいように改善してまいりたいと思います。
 以上でございます。
   [奥山よしじろう議員 登壇]
◆(奥山よしじろう議員) 答弁をいただきました。
 郷土の偉人の中には日本の歴史に名を残す人物とは言えないまでも、郷土の人の心の奥底にいつまでも忘れることのできない人物もおります。改善をしていただけるとのことでありますので、ぜひとも本市が主体的に案内板の整備改善に取り組んでいただきますよう要請いたします。